はだノート

自己満です

ドラムって、音楽ですか?


決まり上では、ドラムは著作物ではないらしい。

決まり上では、ドラムのフレーズを作ることは、作曲とは言わないらしい。


なるほど。


音程ない楽器なのでそりゃそうなんですけどね。


でも、


例え著作物じゃなかったとしても、

一人部屋で頭を抱えて捻って、時にスティックをぶん投げたり、自分を嫌いになりかけたり、紆余曲折ありながらも、葛藤の末出会えた、自分の考えたドラムは、我が子のように愛しいです。


僕はドラムのフレーズを考えている時間が一番好きです。


その行為は定義上では創作に該当しないとしても、僕は自分のつくったものを誇りに思いますし、これからも誇れるものをたくさんつくっていくつもりです。


新しいことがたくさんしたい、やりたいことで頭がパンクしそうです。

音程はなくとも、これは音楽だと

2023は声高に主張し続けたいです。

もちろん、自分のつくったもので!


これに関しては、こうやって文に書いて発信したりしても意味ないんですよね。

言葉じゃなくて、行動で示さないと。

頑張ります。

とりあえず、年始なので、決意表明的な感じです。

よろしくお願いします。

 

まあ色々言いましたが、結局定義なんてのはなんだってよくて、

僕が作ったもので、何かを思ってくれる人がいれば、それが一番幸せなことです。

あわよくば、すご!おもしろ!とか思ってくれる人がいたら、もっといいです。

初めて人前でドラムを叩いたのは、中学一年生のとき。

当時吹奏楽部だった僕は、合唱コンクールの余興演奏で、大きなホールで全校生徒を前に演奏した。

僕は本当に絵に書いたようなクソガキだったため、譜面を全て無視し、自分で勝手にドラムを考えて叩いた。

 

演奏が終わり、全員でそそくさと楽器を撤収する。ひと段落つくと、ふとステージ上にフロアタムを置いてきてしまったことに気付く。

 

一人でステージに戻ってフロアタムを抱えた瞬間。一斉に大きな拍手が起こった。

何事かと客席をみると、五百人以上もの全校生徒の拍手が自分一人に向けて浴びせられているのに気付いた。

知らない上級生が、席を立ち声をあげていた。

立ち尽くすことしかできなかった。

 

これで勝とう、と思った。

 

あの光景に取り憑かれて、ずっとドラムを叩き続けてきた。

叩いて、叩いて、叩き続けて、

気づいたら、こんなところまで来ていた。

 

拍手や喝采や歓声は、時に人を狂わせてしまう。

この道の先は、きっと安定とは無縁の世界だろう。成功者の数なんて、たかが知れてる。

 

道半ば、もし失敗したら。きっと一生、それを足枷に、死んだように余生を生きるのだろう。夢って、呪いみたいなものだ。

 

怖くなることは何度かあった。

でもどうしても、一度たりとも、辞めようとは思えなかった。

 

一度限りの人生、何かに狂っていたい。

途方もない大きな夢を見ていたい。

喜んだり、苦しんだりしたい。

足掻きたい。もがきたい。

この世に何かを残したい。

 

12月19日。ワンマンツアーファイナル。

僕は今日、あの日と同じくらいの数の人を前に、ドラムを叩きます。

 

楽しみます。

 

小学生の頃、中学受験の対策で、お堅い説明文を要約したり、綺麗な文章を書いたり、そういう勉強をたくさんした。

かつての自分にとって、文章を書くという行為は、テストで問題に答えるのと同じ、つまり点数をもらうためだけのものだった。知っている単語を組み合わせて、パズルを完成させるような感覚。感情を排除した「完璧」な文章こそ、採点官には好まれた。

今はもう、当然ながら点数をもらうために文章を書く、という機会も、その必要性も、もちろんないのだが、その感覚がいつまで経っても抜けない。

今になって、たまに無性に文章が書きたくなって、こうやってブログでポチポチ文字を打ち込むのだが、いくら本音をぶちまけようとしても、小学生時代に身についてしまったものが、そうさせてくれない。自分の気持ちを素直に形にすればいい話なのだが、どうしても、それができない。気付いたらパズルを解くような感覚で文章を構築してしまっている。

そのせいで、時間をかけて書いた文章が、本音とは微妙に違う結論に着地してしまったりする。

伝えたいことは、たくさんある。だからこうして文章を書こうとする。でも、いざ出来上がったものを見返したときいつも、本当の気持ちはもっと違うところにあることに気付く。

それを言語化できないで、自分が文章を書くことになんの意味があるだろうか。無力だと感じる。

今もこうして自分が紡いでいる文章を、本音だとは思えない。いるはずのない採点官に読まれているような気持ちになる。

 

でも、人を感動させるような文章を書いてみたいと、ずっと思っている。自分にはその才能がないとは分かってはいるものの、それをどうしても諦められない自分がいる。

 

いつかコンプレックスを克服して、その夢を実現できたらいい。このブログは、そのための練習でもある。

 

ちなみに、中学受験は普通に落ちた。

 

明日はワンマンです

 

忘れもしない。
2019年8月3日、僕は高校生でロッキンに出た。夢のような1日だった。
正直、このままいけちゃうんじゃないかと思った。きっと来年も、って思った。
翌年2020年8月3日、僕はレストランでバイトをしていた。マスクを着けるようになって初めての夏。酷く肌が荒れた。
お客さんにドリアを注文された。間違えてグラタンを出した。怒られた。だが再び間違えてグラタンを出した。超怒られた。店長を呼ばれた。惨めだった。家に帰って泣いた。次の日もバイトだった。バンドの予定は一つもなかった。

 

やっと、やっとライブができる世の中になった。

明日、僕のバンドは生誕5周年を迎える。渋谷WWWでワンマンライブをする。ソールドアウト。

 

あの忌々しき流行り病が生んだ空白の一年は、全てのバンドにとってそうだと思うが、例に漏れず僕のバンドが辿る道を大きく変えてしまった。

でも、決して遠回りじゃなかったと思う。

だって今こんなに楽しい。

 

皆さまのおかげです。

ありがとう、は明日にとっておきます。

 

ドリアとグラタン似すぎだろ

 

 

 

 

 

 

 

ここにいるよのドラム

ここにいるよ音源公開!みなさんたくさん聴いてくださいね!

ということで、この曲のドラムについて少し書こうかなって思います!

ドラムのセルフライナーノーツってなんやねんって感じですけど、まあもし興味ありましたら読んでみてください!

 

この曲を初めて聴いたとき、真っ直ぐに純粋に良い曲だな、と感じました。だからとにかく真っ直ぐなドラムを目指しました!聴いてて気持ちよくて、誰にとっても分かりやすく!純粋に良い曲には純粋に良いドラムで応えようってことで!

 

でも、ただシンプルなことを一辺倒に繰り返すのは違うなって思ったんですよね。

この曲は光の曲なんですけど、光って実体のないものだし、どこかフワフワしたイメージがある。ただ同じことを繰り返す無骨なドラムはちょっと合わないなと!

それと同時に、光ということでどこかちょっとした浮遊感を持たせたかった。

だからサビの途中や1サビ後の間奏とかで意図的にバスドラの数を減らしてます。

曲中でバスドラのパターン変えて数減らすと、なんか急にフワってした感じ出ませんか?

そして聴く人を飽きさせない効果もあるかと!

この曲はそういうのも含めて全体的に、バスドラのパターンの変化や刻み方の変化がちょっと多かったりします。

でもスネアの位置だけは、2拍4拍からほとんどズラさない!

だからノリやすさと歌との親和性は維持しつつ、聴く人を飽きさせないようなドラム展開にできたと自負しております!

 

あと個人的には1Bメロからサビ入るまでの流れがとても気に入っています。

1Bはシンプルなビートにスプラッシュやカップを挟ませキラキラした感じを醸し出しつつ、終盤一気にダイナミクスを上げ加速、ピアノに合わせて広がる感じのビートを作ってそのままスネア16分連打で真っ直ぐにサビへ!

王道だけど純粋にわかりやすくワクワクするような展開を作れたと自負しております!

 

あとは大サビ!

王道にシンバル四分からの「触れられなくっても〜」の後の歌がない隙間にすかさず16分の十八番フレーズぶち込み、そのまま頭打ちに移行してスムーズにキメまでもっていってます。

ここ別に大して難しいことしてないんですけど、この勢いの良さが我ながらなんか泣けるんですよねー。めっちゃ気に入ってます。

 

そしてなんといってもアウトロ。

こういう音量控えめのアウトロで急に難しいフレーズ登場したら意外性あってかなり面白いんじゃないか、と思って、手足コンビネーションのチョップス風フレーズ容赦なくぶち込ませてもらいました。笑 

趣味嗜好全開です!聴いてる人びっくりしたらいいなーって思いながら考えました笑

きっとこの曲はこれからクジラ夜の街の看板曲の一つとなると思うので、あえてちょっとした鋭利さを忍ばせたかった。自分でも中々面白い試みができたと自負しています。

ちなみにレコーディングでここ録るときまろくんが爆笑しててなんか嬉しかったです笑笑 

そして最後の最後に2Bで刻みで使ったカウベルがフレーズの一部として再び一瞬登場するのも中々キュート!

 

とまあテキトーに好きなようにこだわりを列挙させていただきました!もし曲を楽しむお手伝いが少しでもできたなら、幸いです。

 

ちなみに、ここにいるよだけではなく、今までのどの曲に対しても熱量もって語れるくらいにはかなりこだわってドラム考えてきたつもりです!それはこれからもずっとそう。

僕にできることは、良いドラムを考え、叩くこと!

打ち込みが台頭してきて、色々なことが機械に代わられてしまうような時代ですが、それでもドラムを考えるのは人間にしかできないことですからね。

日々研究!新しいことたくさんしたい!みなさんを驚かせたい!

がんばります。有名になりたい。

断片2

あ、音楽一生続けよ、ってなる瞬間は何度かあるんですが


一番鮮明に記憶に残ってるのは、吹奏楽部時代の中学3年生のとき


当時吹奏楽界隈ではかなり有名な凄い先生を招いて練習してたんですけど、その人がまあ怖くて怖くて、中々厳しい人だったんですよ


俺なんかドラムの譜面勝手にアレンジしたりするようないわゆる問題児だったので、何度も怒られてて


最後のコンクールに向けた最後の練習が終わったとき、急にその先生から呼び出されたんですよ


うわ最後なのにまた俺やらかしたのかよ...って思って、ビクビクしながら向かったら


開口一番、「君には才能がある」って

 

ああ、もう一生これを続けてやろうって思いましたね


その言葉を信じて、ひたすら軽音楽部が強い高校を探して、やっと見つけた最高の場所で、今のバンドを組みました

 

こんなんじゃだめだとか、なんでうまく叩けないんだとか、自分を責めてしまうときもたまにありますが


その言葉を思い出すと、何度でも立ち上がれるんですよね


まあでも俺、才能あるしなぁ


って!

 

 

 

誰かが発したたった一言が、その人の生涯の道標になることって、割とよくあります

 

言葉の持つ力って、すごいすね

 

 

 

断片

現在、車で福岡に向かっています。

車窓に映る景色をただ眺めています。

 

ただひたすらに広がる山、緑。人は誰もいない。

ふと、先ほどから丘の斜面にコンクリ製の無機質な階段が散見されることに気付く。

 

こんなところにあって一体誰が使うんだろう、と思う。

 

意識して見れば、階段はありとあらゆるところにあることに気付く。

一見手付かずのように見える自然の中に、ポツポツと点在する人工物、階段。

 

誰も訪れないような場所に確かに存在する、誰かが訪れた形跡。

 

そしてその誰かは、他の誰かがそこを訪れることを思って、階段を作るわけだ。

 

少し神秘的だ、と思う。

 

また、幾多に点在するその階段の一つ一つそれぞれに、作った人がいる。

 

そして階段は誰にも作れるわけじゃない。

むしろ、階段を作れない人間の方が多数派だ。

 

無論僕も作れない。

それには、専門的な技術が必要だからだ。

階段を作れる人間、は少数派だ。

 

そしてこれはあくまで僕の推測に過ぎないが、彼らはその階段を正確に作るための専門的な技術を身につけるために、莫大な鍛錬、経験を要されただろう。

 

そしてその階段を生み出す上でも、それなりの時間と苦労が伴ったはずだ。

 

つまり、車窓から見えるそこら中に点在する階段は、名前も知らない人間の、紛れもない生きた証、人生の断片であるといえる。

 

でもそれなのに。

 

あんな場所にあるから、きっと誰にも使われない。

 

階段はそれを使う者が存在してはじめて意味を成すもの。

使われない階段は、ただの段差だ。

 

さらには、その一つ一つには名前がない。

 

挙句、誰が作ったかも記されていない。

 

好き勝手生い茂る緑の中、突如現れる、正確さ。角張ったフォルム。無機質な灰色。

鎮座、ともいうべきその佇まいには、孤独さえ感じる。

 

少し悲しい、と思った。

 

どうやらこれは、音楽にも、同じことが言えそうだ。

 

上手いことが言えそうだ。

 

なかなか難しいが、頑張って言葉を捻出すれば。

 

でも、そうすると、ちょっぴり残酷な結論に達しそうだ。

 

だから、この辺でやめておく。

 

 

 

 

 

頑張ります。